高崎だるまの生みの親「山縣 友五郎」

高崎だるまの日

群馬県達磨製造協同組合は、大正4年(1915年)に現在の組合の前進である碓東達磨製造協同組合を発足して、先達の遺産である高崎だるまを作り続けてまいりました。
また、平成27年(2015年)には組合発足から百周年を迎え、その達磨の始まりについて様々な角度から経緯を追い求めてまいりました。

江戸から明治に入り、市内・県内・県外とだるま市が方々で行われるようになり、高崎だるまは関東一円から全国に知られるようになりました。
この全国に類のない日本一の達磨の産地の生みの親は、江戸の昔、ただ一人郷里の上豊岡村でだるま作りを始めた『山縣 友五郎(やまがた ともごろう)』と言います。
平成29年8月9日は、その山縣友五郎の没後155年となります。
群馬県だるま製造協同組合は山縣 友五郎没後155年の8月9日に慰霊祭を行い、彼の偉業と功績を称えます。
また同じく、高崎だるまを今日の大産地に導いた木型彫名人葦名鉄十郎盛幸や松本由松親子の功績も称え、高崎だるまを後世に伝える為、8月9日を「高崎だるまの日」に制定いたしました。

私たちは、高崎達磨の先達の想いをこれからもしっかりと受け止め受け継いでいきたいと思います。

高崎だるまの歴史

高崎だるまは、かつて豊岡だるまとも呼ばれ、江戸時代の後期、文化・文政年間の頃に山縣友五郎によって生み出されました。
山縣友五郎は1793年(寛政5年)に上豊岡村で生まれました。山縣家は、古くは武田信玄の二十四将の一人として活躍し、江戸時代には名主を務める家柄でした。その為、代々の戒名には軒の文字があり、これは武家の名残のようです。
山縣友五郎がいつから高崎でだるまを作り始めたのかと言う明確な期日を示す記録は見つかっていません。しかし、最近ようやく友五郎が亡くなった時の年齢が明らかになったことで、今まで始まりは寛政年間とされてきましたが、友五郎の誕生年から推測して、十代から三十代の文化・文政年間の頃と考えられます。
まさに、それを裏付けるように、文政12年(1829年)には、田町六斎市初市でだるまが売られている様子が高崎談図抄の版画に残されています。
田町の初市
田町の初市(文政年間)『高崎談図抄』より(峯岸 堪次 著『族 縁起だるま』より)
 山縣友五郎の子孫である元新島学園高校教論の山縣秀明先生のお話によれば、友五郎は若き日に人形職人を目指して、武州(埼玉県)の人形店に修行に行ったとのことです。
当時江戸では疱瘡が流行り病となっていました。病に苦しむ人達にだるまは疱瘡避けのお守りとして江戸庶民の傍にありました。友五郎はその当時売られていた江戸だるまに接し、郷里である上豊岡村に戻り、自らも工夫を重ね、病避けを願いだるまを作り始めたとのことです。
江戸時代の豊岡地域でだるまを作っていたのは、山縣友五郎家を中心とした親戚縁者だけでしたが、田町初市などの賑やかな街中でだるまを売り、脈々としてその技法が伝承されてきました。
江戸幕末から明治に入り、だるま木型彫名人の葦名鉄十郎盛幸が上豊岡村に住み着き、生涯で何百体ものだるま木型を彫ります。
山縣友五郎のだるま作りの技法と木型彫名人の葦名鉄十郎盛幸のおかげでたくさんの職人が育ち、全国に類のないだるまの大産地が出来上がりました。友五郎のふるさとである高崎・豊岡は、「だるまの里」と言われるようになりました。

群馬県達磨製造協同組合は、大正4年(1915年)に現在の組合の前進である碓東達磨製造協同組合を発足して、友五郎の遺産であり、強度の宝である高崎だるまの製造を続けてまいりました。
また、平成27年(2015年)には組合発足から百周年を迎え、そのだるまの始まりについて様々な角度から経緯を追い求めてまいりました。
明治に入り、市内・県内・県外とだるま市が方々で行われるようになり、高崎だるまは関東一円から全国に知られるようになりました。
それゆえに、これからも高崎だるまを作り始めた山縣友五郎がどのような波乱万丈の人生を送ったのが追い求めていきたいと思います。
山縣友五郎は、生涯だるまを作り続け、1862年(文久2年)8月9日に69歳で亡くなりました。その戒名は「是法軒招庵常成居士」と言い、平成29年8月9日没後155年を迎えました。

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群馬県達磨製造協同組合