ブルーノ・タウトが愛した高崎・少林山

ブルーノ・タウト(1880~1938)は、ドイツ生まれの著名な建築家。都市計画と集合住宅の世界的権威として知られており、博覧会出品作や色彩豊かな住宅団地などの作品で国際的に高い評価を受けました。
その後、ナチス政権の台頭で身の危険を感じたタウトは、エリカ夫人を伴い日本に亡命。1933(昭和8)年5月から1935(昭和11)年10月までの3年半、日本に滞在しました。その間、最も長く過ごしたのが、群馬県高崎市にある少林山達磨寺境内の洗心亭。井上房一郎氏の招きにより、ここで2年3か月の歳月を送りました。

タウトには、井上氏が3か月1000円を支払いました。その後は、群馬県が工芸指導をする嘱託職員として、100円がタウトに支払われました。
タウトのデザインは、県の工業試験場で試作され、高崎周辺の町や村の無名の職人たちの手によって工夫が重ねられ、モダンな工芸品が作られました。タウトのデザインと職人を結びつけたのが、当社の顧問でもあった水原徳言氏です。
タウト・水原氏・地元職人の連携で完成した工芸品は、井上氏が経営する銀座や軽井沢の「ミラテス」に並べられ、たくさんの人たちが買い求めました。一番売れたのは「竹皮細工」。特に軽井沢ではパンかごがたくさん売れ、そのパンかごがない家はもぐりだと言われるほどでした。独特の色調のハーモニーがタウトの特徴でした。

タウトが滞在したころ、群馬県は木材の供給地でした。特に商工省の木工指定都市であった高崎では、桐ダンスの生産が盛んでした。木材の入札がある沼田に通ううち、タウトはすっかり沼田が気に入りました。好きになると、そこのためにデザインをするタウト。沼田の奥にある藤原地区には栃の木があり、それで作る藤原盆が有名でした。ひと目見て気に入ったタウトは、そこで随分ペン皿なども作りました。タウトは、鉄分の多い栃の木ならではの「ふ」が大好きでした。

高崎在住中に1000点にもおよぶデザインを残したタウトは、その後、トルコ政府から手厚い招きを受けて日本を去ることになりました。1936年10月8日、タウトを見送ろうと多くの住民が駆けつけました。タウトは「八幡村万歳、少林山万歳」とあいさつをしたといいます。
今も洗心亭には「ICH LIEVE DIE JAPANISCHE KULTUR」(私は日本の文化を愛す)というタウトが少林山に残した言葉の碑が残っています。

ブルーノ・タウトが信頼を寄せた水原徳言氏

群馬県高崎市にある少林山達磨寺境内の洗心亭で1934(昭和9)年から2年3か月を過ごした世界的に著名な建築家、ブルーノ・タウト(1880~1938)。そのタウトの仕事の世話役を務めたのが、アクティ大門屋の顧問も務めた水原徳言氏です。水原氏は、井上工業の井上房一郎氏が進めていた工芸運動の中心的な存在。ブルーノ・タウトに出会ったのも井上氏の紹介です。

昼は井上氏の仕事をし、夕方になると自分の仕事をしていたタウト。思いつくと水原氏に「こういうものができるか?」とデザイン画を見せて尋ねたそうです。水原氏は、タウトのデザインを見て職人を探し、「あの人ならできる」と思う職人に仕事を依頼。英語が分からない職人のために、水原氏は必ず同行したそうです。

生前、「先生には叱られてばかりだった」と話した水原氏。そんな水原氏にタウトは、高崎を離れて向かったトルコから水原氏に(トルコへ)来るよう、誘いの手紙を送っていたそうです。タウトが水原氏に寄せていた信頼の高さをうかがわせます。2年3か月の滞在中にタウトがデザインしたものは、水原氏が職人の力を集めることで、洗練された工芸品となって生み出されていきました。

水原氏の存在なくしては、タウトのデザインがかたちとなることはなかったのです。

アクティ大門屋の活路を決めた水原徳言先生との出会い
~普段使いの美、新しいものの創造~

代表取締役社長  中田 保

水原先生の存在を知ったのは、32歳のとき。当時、所属していた都内商業文化研究所の仲間が私に「高崎なら水原先生を知っているだろう」と言うんですね。 失礼ながら私は存じ上げなかったんです。話を聞くと、ものすごく偉大で計り知れない知識の持ち主だと言う。「ぜひ会った方がよい」と薦められて会いに行きました。

先生は1911年生まれ。井上房一郎氏が高崎で始めた工芸製品活動に参加。タウトが高崎に滞在し、工芸製品制作の指導に関わるようになった際は、協力者として活動するなどして親密にかかわり、タウト唯一の弟子と言われた方でした。

そのころの当社は達磨(だるま)がメイン。あとは、干支の縁起物。そういう商品をつくる上で何かアドバイスをもらえれば、と思ったのです。 実際にお目にかかって話をするととっても面白い。仲間が言ったように知識が豊富だから、たとえば、張り子の話一つにしても歴史やあり方など、本当によくご存知だし、話が深い。先生にお会いするのが楽しくなって、通い詰めるようになったのです。

あまりにも私が頻繁に訪れるせいでしょうか?先生の方から顧問契約の話をもちかけてくださって、早速お願いすることにしました。先生には「物を見る目」の養い方を随分教わりました。先生はエネルギッシュな行動派。本物を見るため、日本各地の美術館や有名建造物があるところにずいぶん連れていっていただきました。話をしていて、「実物を見た方がいい」と突然、葛飾北斎の肉筆の天井絵を見に小布施に出向いたこともありましたね。

その中で、柳宗悦が中心になって活動していた民芸運動についても詳しくお話しいただきました。民芸運動とは、ふだんの暮らしの中で使われてきた日用品の中に美しさを見出し、活用していこうという運動。「普段使いの美」は、今も私たちアクティ大門屋の基本となるスピリットです。

お客さまから「どうして達磨は目を入れずに(お客さまのもとへ)届けるのか?」と尋ねられたとき、水原先生が 「達磨に目を入れるということは、すなわち開眼を意味する。開眼とは魂を入れること。達磨の魂はお客さまが入れるもの」 という意味の解説を書いてくださったことがありました。あらゆることを深く学び、真理を追究した水原先生だからできたことではないかと思います。

もうひとつ、水原先生から盛んに言われたのは「新しいものをどんどん作りなさい」ということ。 何でもいいから、ということではありません。「本物」を見極め、「本物」に行き着いたところから発生する新しいものを、ということです。 お客さまの願いは何か?うわべだけのものではなく、心の奥底、つまり本質を探り、土地柄や背景などを考えながら、お客さまの心に沿ったものを作り出しなさい、ということですね。

私たちは平成元年までは、制作物の95%が達磨でした。それが、先生の教えを受け、新しいものに挑戦。手作り手描きにこだわった張り子や、再生紙を活用したプランターやマネキンなどにも力を入れるようになり、気づけば達磨の比率は一桁。本物を踏まえながらオリジナリティに富んだ張り子は多くの方の支持を得て全国に広まり、エコロジー商品のプランターやマネキンは需要を拡大しています。

これからの私に課せられた大きな仕事のひとつに、クリエイターの育成があります。生活スタイルの変化に伴い、お客さまから求められているものも変わってきています。

水原先生が大切にしてきた「本物」「本質」を大切に、自分の経験、それぞれのクリエイターが個性を生かして表現した商品づくりができる環境を整え、世界中の人の潤いのある毎日をお手伝いできればと思っています。